「負けたまま終わる人生」を受け入れることと、諦めることの違い

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「負けたまま終わる人生」を受け入れることと、諦めることの違い

「勝ち組」と「負け組」

2000年代前半、「勝ち組」「負け組」という言葉が流行った。就職できた人は勝ち組、できなかった人は負け組。正社員は勝ち組、非正規は負け組。結婚した人は勝ち組、独身は負け組。持ち家のある人は勝ち組、賃貸は負け組。

この二分法に従えば、私は「負け組」だ。正社員ではない。結婚していない。持ち家がない。貯金が少ない。友達がいない。社会が定めた「勝ち」の条件を、何一つ満たしていない。

45歳。この年齢から逆転して「勝ち組」になる可能性は、限りなくゼロに近い。正社員になれる可能性。結婚する可能性。マイホームを買う可能性。どれも、確率としては非常に低い。

つまり、「負けたまま終わる人生」になる蓋然性が高い。

この蓋然性と、どう向き合うか。

「受け入れる」と「諦める」は違う

「負けたまま終わる」ことを受け入れるのと、諦めるのは違う。似ているが、根本的に異なる。

「諦める」とは、可能性を放棄することだ。「もう何をしても無駄だ」「何も変わらない」「このまま終わればいい」。行動を止める。試みを止める。変化を求めない。現状を固定し、そのまま沈んでいく。

「受け入れる」とは、現実を直視した上で、その現実の中で最善を尽くすことだ。「勝ち組にはなれないかもしれない。だがこの状況の中で、できることをやる」。行動は止めない。試みは続ける。ただし、「勝ち」を目標にするのではなく、「今日一日を良く生きる」ことを目標にする。

諦めた人間は、動かない。受け入れた人間は、動き続ける。外から見れば、どちらも同じ場所にいるように見えるかもしれない。だが内面は異なる。諦めた人間は空虚だ。受け入れた人間は、穏やかだ。

「負け」の定義を変える

そもそも「負け」の定義は、誰が決めたのか。正社員でなければ負け。結婚していなければ負け。持ち家がなければ負け。これらの基準は、社会が勝手に設定したものだ。

社会が設定した基準を、なぜ個人が受け入れなければならないのか。基準を受け入れるかどうかは、個人の自由だ。受け入れなければ、「負け」は存在しない。

私は、社会の基準を受け入れないことにした。正社員でなくても、働いている。結婚していなくても、生きている。持ち家がなくても、住む場所はある。社会の基準で「負け」でも、自分の基準では「引き分け」か、あるいは「判定中」だ。

自分の基準を作る。「毎日ご飯を食べられた」→勝ち。「今日も健康に過ごせた」→勝ち。「半額の刺身がおいしかった」→大勝ち。「散歩中の夕焼けがきれいだった」→圧勝。

基準を下げているだけだ、と言われるかもしれない。その通りだ。基準を下げている。下げることの何が悪い。高い基準で自分を測って不幸になるより、低い基準で自分を測って穏やかに暮らすほうが、精神衛生上は良い。

基準を下げるのは敗北ではない。戦略だ。限られたリソースで最大の幸福を得るための戦略。経済学で言う「効用の最大化」だ。高い基準の幸福は手に入らないが、低い基準の幸福は手に入る。手に入る幸福を最大化する。これが「受け入れる」ということだ。

「勝ち負け」のない人生

受け入れた先にあるのは、「勝ち負け」のない人生だ。

勝ち負けで人生を評価するのをやめると、景色が変わる。隣の芝生の青さが気にならなくなる。他人の成功を見ても、「いいな」とは思うが、「自分はダメだ」とは思わなくなる。他人は他人、自分は自分。

この境地に至るまでに20年以上かかった。20代、30代は「勝ち負け」に囚われていた。勝てないことが悔しくて、負けている自分が惨めで、毎日が比較と自責の連続だった。

40代半ばで「勝ち負け」から降りた。降りたというより、降ろされた。勝負の土俵に上がる資格がなくなった。上がれなくなったから、降りた。降りて初めて「勝ち負けに囚われていた自分」が見えた。囚われていた自分は不幸だった。降りた自分は、不幸ではない。幸福でもないが、不幸でもない。中立。この中立が、今の私のデフォルトの状態だ。

中立は、退屈に見えるかもしれない。キラキラもしていないし、ドラマもない。だが中立は安定している。安定しているから、小さな幸福に気づける。小さな幸福——発泡酒の最初の一口、年越しそばの海老天、散歩中の風——に気づけることが、中立の最大のメリットだ。

負けたまま終わることの意味

「負けたまま終わる人生」。この言葉は暗い。暗いが、真正面から見つめてみる。

負けたまま終わる。社会の基準で「勝ち」を得ることなく、人生を閉じる。正社員にもならず、結婚もせず、マイホームも持たず、大した貯蓄もなく、友達もなく。この状態で死ぬ。

だが「負けたまま終わる」のは本当に「負け」なのか。

50年間、生き延びた。30年間、非正規で働き続けた。一度も犯罪を犯さず、税金を払い、社会の一員として生きてきた。限られた資源の中で、創意工夫をして生活を回してきた。もやし料理を23種類開発し、半額シールのタイミングを読む技術を磨き、100均で生活を成り立たせるスキルを身につけた。

これらの実績は、社会の「勝ち負け」の基準では評価されない。されないが、確かに存在する。存在する実績を、自分で評価する。社会が評価してくれないなら、自分で評価するしかない。自分で「よくやった」と言う。自分で自分を褒める。誰も褒めてくれないから、自分で褒める。

負けたまま終わる人生を受け入れることは、自分の人生を自分で肯定することだ。社会の基準ではなく、自分の基準で。自分の基準で見れば、この人生は「負け」ではない。「こういう人生」だ。こういう人生を生きた。それだけだ。

諦めとは違う。諦めた人間は、自分の人生を肯定できない。「どうせダメだ」で終わる。受け入れた人間は、自分の人生を肯定できる。「こういう人生だった。悪くない」で終わる。

この違いは、最後の一日に表れる。最期の瞬間に「まあ、悪くなかったな」と思えるか。思えるなら、負けたまま終わっても、悪い人生ではない。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。「負けたまま」という言葉に複雑な感情を持つ人は、きっと少なくないはずです。

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