外食が「年に数回のイベント」になった過程——氷河期世代の食事の変遷20年史
20代の食事——外食が「日常」だった頃
20代前半。大学を出て一人暮らしを始めた頃。自炊のスキルはほぼゼロだった。実家では母が食事を作ってくれていたから、包丁の使い方すら怪しかった。
一人暮らしの食事は、必然的に外食かコンビニ弁当になった。牛丼チェーン、ラーメン屋、ファミレス、コンビニ。これらが食事の主戦場だった。朝はコンビニのおにぎり。昼は牛丼。夜はラーメンかコンビニ弁当。一日の食費は1500円から2000円。月に5万円近くを食事に使っていた。
5万円。今の自分から見れば、信じられない金額だ。月の食費が5万円。手取りの3割以上が食費に消えていた。だが当時は「これが普通」だと思っていた。周囲の一人暮らしの友達も、似たような食生活をしていた。外食は日常であり、特別なことではなかった。
外食が日常だった頃は、「何を食べようか」を楽しんでいた。今日は中華にしようか、イタリアンにしようか。新しくできたラーメン屋に行ってみようか。この「選ぶ楽しさ」が、日常の中にあった。食事は栄養補給であると同時に、娯楽でもあった。
20代後半——食費の見直し
20代後半。派遣の仕事を始めたが、収入は多くなかった。手取り14万円程度。食費5万円は収入の3分の1以上を占める。「これはまずい」と気づいた。
節約を始めた。まず外食の頻度を減らした。週5回の外食を週3回に。残りの2日は自炊する。自炊といっても、最初はインスタント麺にもやしを入れる程度。「自炊」と呼べるレベルではなかったが、外食よりは安い。
月の食費が5万円から4万円に下がった。1万円の節約。この1万円が、当時の生活を少しだけ楽にしてくれた。だが4万円でもまだ高い。さらに削る必要があった。
コンビニ弁当をスーパーの弁当に切り替えた。コンビニ弁当500円がスーパーの弁当350円に。さらに閉店前の割引品なら200円。この差額が、月に5000円の節約になった。
このころから「外食は特別なもの」という認識に変わり始めた。毎日の食事は自炊かスーパーの弁当。外食は「たまのご褒美」。週3回が週1回に減った。
30代——外食が「月に1回」に
30代に入ると、食費の節約がさらに進んだ。自炊のスキルが上がり、もやし料理のレパートリーが増え(別のエッセイで23種類と書いた)、月の食費を3万円以下に抑えることに成功した。
3万円以下で生活するには、外食をほぼゼロにする必要がある。外食は月に1回。それも牛丼やファストフードの500円程度の店。居酒屋やレストランには行かない。行ける予算がない。
月に1回の外食は「イベント」になった。「今月はどこに行こうか」と考える。考えること自体が、一種の楽しみだ。今月は牛丼にしようか、ラーメンにしようか。500円で最大の満足を得られる店を選ぶ。選んで、行って、食べる。食べた後の満足感は、毎日外食していた頃よりも大きい。希少性が満足度を上げている。
逆に言えば、毎日の食事の満足度は下がった。自炊のもやし炒め、半額の惣菜、パスタ。おいしくないわけではないが、「今日のご飯、楽しみだな」とワクワクすることはなくなった。食事は「楽しみ」ではなく「作業」になった。カロリーを摂取する作業。体を動かすための燃料補給。
40代——外食が「年に数回」に
40代に入ると、外食はさらに減った。月に1回が、2ヶ月に1回になり、3ヶ月に1回になり、気づけば「年に数回」になっていた。
減った理由は複数ある。まず食費をさらに削る必要が出てきたこと。NISAの積立を始め、その分を食費から捻出した。月5000円のNISA代は、月に1〜2回の外食分に相当する。外食を減らしてNISAに回した。
次に「外食する相手がいない」こと。30代まではたまに同僚と外食することがあったが、40代になると誘われることが減った。自分から誘う相手もいない。一人で外食するのは、牛丼やラーメンなら抵抗がないが、レストランや居酒屋に一人で入るのは気が引ける。結果、外食自体が減る。
そして「外食する動機がなくなった」こと。20代の頃は「自炊できないから外食」だった。30代は「たまのご褒美として外食」だった。40代になると、自炊のスキルが上がり、「外食するより自分で作ったほうがおいしい」と思うようになった。もやし料理の23番目のバリエーションのほうが、チェーン店の定食よりおいしいと感じる。これは舌が肥えたのか、それとも外食の基準が下がったのか。
「おいしいものが食べたい」という欲求の萎縮
外食が減るにつれて、「おいしいものが食べたい」という欲求自体が萎縮していった。
20代の頃は「あの店のラーメンが食べたい」「今日はカレーの気分」「週末はイタリアン」と、食べたいものが具体的にあった。食の欲求がアクティブだった。
40代の今は「今日は何を食べればいいか」という消極的な問いに変わっている。「食べたいもの」ではなく「食べるべきもの」。栄養バランスを考えて、予算内に収まるものを選ぶ。選択の基準が「欲求」から「合理性」に変わった。
欲求の萎縮は、食事だけに限らない。衣服、娯楽、旅行。あらゆるカテゴリで「欲しいもの」が減っている。欲しいものが減ったのは、「諦めた」からではなく、「欲求を持つこと自体がエネルギーを要する」からだ。欲しいものを欲しがるには、「手に入るかもしれない」という希望が必要。希望がなければ、欲求は生まれない。手に入らないとわかっているものを、欲しがり続けるのは辛い。辛いから、欲求を停止する。停止すると、楽になる。楽になるが、人生の彩りが減る。
食事の彩りが減ると、人生全体がモノクロに近づく。毎日同じような食事、同じような味、同じような満足度。波がない。波がないのは安定とも言えるが、退屈とも言える。安定した退屈。退屈な安定。どちらが正しい表現かはわからないが、どちらも嘘ではない。
「誰かと食べる」ことの価値
食事の質を決めるのは、料理のクオリティだけではない。「誰と食べるか」が大きく影響する。
同じ牛丼でも、友達と食べれば会話が弾み、楽しい。一人で食べれば、ただの栄養補給だ。同じカップ麺でも、恋人と一緒にすすれば幸せ。一人ですすれば、寂しさの味がする。
一人暮らしの独身は、すべての食事を一人で食べる。一人の食卓が20年以上続いている。慣れた。慣れたが、「慣れ」と「平気」は違う。慣れたからといって、「誰かと食べたい」という欲求がなくなったわけではない。欲求はある。あるが、叶えられない。叶えられないから、「一人でも美味しく食べる方法」を模索する。テレビを見ながら食べる。ラジオを聴きながら食べる。YouTubeで「一人飯」の動画を見ながら食べる。「誰かがいる」の代替物を、メディアで埋める。
代替物は代替物でしかない。テレビの向こうの人は、私の「おいしいね」に応えてくれない。「もう一杯飲む?」と聞いてくれない。「今日はどうだった?」と話を振ってくれない。食事の時間に「人」がいないことの寂しさは、調味料ではカバーできない。
「安い外食」すらためらう心理
年に数回の外食は、500円の牛丼や600円のラーメン。「安い外食」だ。だがこの「安い外食」すらためらうことがある。
500円。スーパーの半額弁当なら200円。差額300円。300円あればもやしが10袋買える。もやし10袋は10食分。500円の牛丼1食よりも、200円の弁当+もやし10袋のほうが、コスパが良い。
こういう計算が、外食を注文する直前に脳内で走る。走った結果、「やっぱりやめよう」と思うことがある。牛丼屋の前まで来て、引き返す。引き返してスーパーに行く。半額の惣菜を買って帰る。500円を守った。守ったが、ちょっと虚しい。
500円の外食をためらう。この心理は、合理的だが健全ではない。500円の食事を楽しむことすら許さない自分。節約が行き過ぎて、「食の楽しみ」が完全に消えている。消えたことに気づいても、「500円は高い」という判断は変わらない。変わらないから、外食は減り続ける。
食事を「イベント」に戻したい
外食が「年に数回のイベント」になったことを、ネガティブに書いてきた。だがポジティブに捉え直すこともできる。
年に数回の外食は、本当に「イベント」だ。クリスマスや誕生日の「特別な食事」と同じレベルの特別感がある。牛丼1杯が、フレンチのフルコースと同じくらい楽しみ。この楽しみの密度は、毎日外食していた20代の頃には味わえなかったものだ。
希少性が価値を生む。毎日食べる牛丼は「普通」だが、年に数回の牛丼は「ご褒美」だ。同じ500円でも、体験の価値が違う。限られた予算の中で最大の幸福を得るには、「たまに食べる」のが最適解かもしれない。
この考え方は、「貧しさのポジティブ変換」にすぎないかもしれない。「食べられないから、食べない理由を見つけた」だけかもしれない。だがポジティブ変換でも、心が少し楽になるなら、変換する価値はある。
次の外食はいつだろう。来月か、再来月か。そのとき、何を食べようか。牛丼にしようか、ラーメンにしようか。考える時間が、すでに楽しい。食べる前から楽しめるのは、「イベント」だからこそだ。日常だった頃には、この「食べる前の楽しみ」はなかった。
外食が「年に数回のイベント」になった。なったことを嘆くのは簡単だが、なったからこそ得られる楽しみもある。その楽しみを、大切にしたい。次の牛丼が、最高の一杯であることを祈りながら。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。外食が「特別なイベント」になった人は、きっと少なくないはずです。

