映画館に最後に行ったのがいつか思い出せない——「文化的な生活」のコストと氷河期世代

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映画館に最後に行ったのがいつか思い出せない——「文化的な生活」のコストと氷河期世代

映画館の記憶が遠い

映画館に最後に行ったのは、いつだろう。

記憶を辿ってみる。去年? 違う。一昨年? 違う。3年前? 思い出せない。5年前? たぶんそのくらい。何を観たかも覚えていない。覚えているのは、チケット代が1900円だったこと。1900円。この金額が高いと感じて、「次はもういいかな」と思ったこと。それだけだ。

1900円。映画1本。2時間の体験。2時間を1900円で買う。時間単価にすると950円。時給1200円の派遣社員にとって、1時間半分の労働の対価を、2時間の娯楽に投じる。この等式が、脳内で瞬時に計算される。計算されたら最後、「もったいない」が勝つ。もったいないから行かない。行かないから、映画館の記憶が遠のく。

映画だけではない。美術館、コンサート、演劇、ライブ。いわゆる「文化的な体験」のすべてが、生活から消えている。消えた理由はシンプルだ。お金がない。

「文化」にはお金がかかる

映画のチケット代1900円。美術館の入場料1500円。コンサートのチケット5000円〜1万円。演劇のチケット5000円〜8000円。書店で本を買えば1500円〜2000円。音楽の配信サービスは月額1000円。動画の配信サービスも月額1000円〜2000円。

これらを月に一つずつ楽しむとしたら、月額5000円〜1万円。年間6万円〜12万円。NISAの年間積立額に匹敵する。文化を楽しむか、NISAに入れるか。この二択を迫られたとき、氷河期世代は後者を選ぶ。将来の生存のために、現在の文化を犠牲にする。

「文化」は、マズローの欲求階層で言えば上位の欲求だ。生理的欲求(食べる、寝る)→安全の欲求(住む場所、収入)→社会的欲求(つながり)→承認欲求→自己実現の欲求。文化的な活動は、自己実現に近い欲求だ。下位の欲求が満たされていない人間にとって、上位の欲求は「贅沢品」に見える。

食費を削り、光熱費を削り、通信費を削り。すべての固定費を最小化してもなお余裕がない状態で、「文化」に使える金はない。文化は、余裕のある人のためのものだ。余裕がない人間は、文化から排除される。排除されているという自覚すらなくなったとき、文化的貧困は完成する。

無料で触れられる文化

お金がなくても文化に触れる方法はある。完全にゼロ円で。

図書館。本も雑誌もCDもDVDも、無料で借りられる。冷暖房の効いた空間で、好きなだけ読める。別のエッセイで書いた通り、図書館は私にとっての「文化の砦」だ。

美術館の無料開放日。多くの美術館が月に1回程度、無料開放日を設けている。常設展だけなら無料の美術館もある。東京なら国立美術館のコレクション展が無料のことがある。地方の公立美術館も無料の場合がある。

YouTubeやネット配信。クラシック音楽のフルコンサート、映画の予告編、美術展のバーチャルツアー、作家のインタビュー。これらが無料で視聴できる時代だ。映画館には行けなくても、映画の情報は手に入る。美術館には行けなくても、絵画の画像は見られる。

散歩。これも無料の文化活動だ。街を歩く。建物を見る。公園の植物を見る。空を見る。季節の変化を感じる。散歩は「ゼロ円の美術館」だ。展示物は毎日変わる。入場料はゼロ。開館時間は24時間。

だがこれらの「無料の文化」は、有料の文化の代替にはならない。映画館の大きなスクリーンと音響で映画を観る体験は、スマートフォンの小さな画面では再現できない。美術館で本物の絵画の前に立つ体験は、画面上の画像では味わえない。コンサートホールで生の演奏を聴く体験は、YouTubeのスピーカーでは得られない。

無料の文化は「文化の入口」としては有効だが、「文化の体験」としては限界がある。限界があることを知りつつ、無料の範囲で楽しむ。これが、お金のない人間の文化との付き合い方だ。

文化から離れると何が失われるか

文化的な体験が生活から消えると、何が失われるか。具体的に考えてみた。

失われるもの1は「会話のネタ」。映画を観ていなければ、映画の話題について行けない。本を読んでいなければ、本の話ができない。音楽を聴いていなければ、音楽の話ができない。文化的な共通言語を持たないと、人との会話が狭まる。天気と仕事と節約の話しかできない人間になる。

失われるもの2は「感情の揺さぶり」。映画で泣く、音楽で心が震える、絵画の前で言葉を失う。これらの「感情の揺さぶり」が、日常の中にスパイスを加える。スパイスがないと、毎日が単調になる。単調な日々が続くと、感情自体が鈍くなる。鈍くなると、喜びも悲しみも感じにくくなる。感情のレンジが狭まる。

失われるもの3は「想像力」。文化的な作品に触れることで、自分とは異なる人生、異なる価値観、異なる世界を想像する力が養われる。この想像力がないと、自分の世界に閉じこもる。閉じこもると、視野が狭くなる。視野が狭くなると、問題の解決策が見えにくくなる。

失われるもの4は「自己表現の手段」。文化に触れることで、「自分は何が好きで、何に感動し、何に価値を感じるか」が明確になる。自己表現の手段が乏しくなると、自分自身を理解することが難しくなる。自分を理解できないと、他者にも自分を伝えられない。

これらの「失われるもの」は、すべて目に見えない。食費や光熱費のように数字で測れない。測れないから、犠牲にしやすい。「文化を削っても死なない」。確かに死なない。だが死なないだけで、生活の質は確実に下がっている。下がっていることに気づかないまま、5年、10年と経っている。

憲法25条と「文化的な最低限度の生活」

日本国憲法第25条。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。

「文化的な」が含まれていることに注目してほしい。健康なだけでは足りない。文化的であることも、最低限度の生活の条件だ。憲法が保障する生活の中に「文化」が含まれている。

だが現実には、多くの氷河期世代が「文化的」とは言い難い生活を送っている。映画館に行けない。美術館に行けない。本を買えない。音楽を聴けない。これらの「文化の欠如」は、憲法が保障する「文化的な最低限度の生活」を下回っているのではないか。

下回っていたとしても、「映画に行けません」と行政に訴えて何かしてもらえるわけではない。生活保護を受給していれば、生活保護費の中で文化的な支出も認められているが、映画代や美術館代を捻出する余裕があるかどうかは別問題だ。

憲法の理念と現実のギャップ。このギャップの中で、氷河期世代は「文化的ではない」生活を、「健康的でもギリギリの」生活を、送っている。

文化を「取り戻す」ための小さな試み

大きなお金をかけなくても、文化を少しずつ取り戻す方法はある。

試み1は「月に1冊、図書館で本を借りる」こと。小説でもエッセイでも新書でも。活字を読むことで、想像力と語彙力が維持される。読んだ本の感想をメモに残すと、自分の思考が整理される。

試み2は「年に1回、美術館に行く」こと。無料開放日を狙えば、入場料はゼロ。美術館に行く行為自体が、日常からの脱出になる。非日常の空間で、ゆっくりと絵を見る。この体験は、金額に換算できない価値がある。

試み3は「YouTubeでドキュメンタリーを観る」こと。映画館には行けなくても、質の高いドキュメンタリーがYouTubeに無料で公開されている。NHKの過去番組、海外の自然ドキュメンタリー、歴史番組。これらを観ることで、知識と感動を得られる。

試み4は「散歩を『鑑賞行為』にする」こと。ただ歩くのではなく、建物の造形を見る、植物の変化を観察する、空の色を楽しむ。意識を変えるだけで、散歩が「ゼロ円の文化体験」に変わる。

これらの試みは、すべて無料か、ごくわずかなコストで実行できる。文化は金持ちだけのものではない。お金がなくても、文化に触れることはできる。触れ方が限定されるだけで、触れること自体は可能だ。

映画館にまた行く日

映画館にまた行きたい。大きなスクリーン。暗い空間。周囲の観客の息遣い。ポップコーンの匂い。映画が始まる直前の、あの高揚感。

いつ行けるかわからない。1900円を映画に使えるようになる日が来るかどうか。来るかもしれないし、来ないかもしれない。来なくても、映画館の記憶は残っている。暗い空間の中で、大きなスクリーンに映し出される物語に没頭した、あの体験の記憶。記憶は、無料だ。記憶の中で、何度でも映画館に行ける。

でも、できれば記憶の中ではなく、実際の映画館に行きたい。1900円。いつか、この1900円を「もったいない」ではなく「価値がある」と感じられる日が来ることを。その日が来たら、何を観ようか。何でもいい。大きなスクリーンで映画を観る、その体験自体が目的だ。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。文化的な生活のコストに悩んでいる人は、きっと少なくないはずです。

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