「若い頃の写真」と「今の自分」を見比べて静かに閉じた話——外見の変化と自己認識のズレ

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「若い頃の写真」と「今の自分」を見比べて静かに閉じた話——外見の変化と自己認識のズレ

実家の押入れから出てきたアルバム

帰省したとき、母が押入れの整理をしていた。段ボール箱の中から、古いアルバムが出てきた。表紙が色褪せた、分厚いアルバム。開くと、大学時代の写真が並んでいた。

20歳の自分がいた。

ゼミの合宿の集合写真。友達と居酒屋で撮った写真。一人で公園のベンチに座っている写真(誰が撮ったんだろう)。髪は黒々として、肌にはハリがあり、体は細く、目に力があった。笑っていた。楽しそうに笑っていた。

写真の中の20歳の自分を見つめた。見つめながら、現在の自分の顔を思い浮かべた。白髪が増えた。額が広がった(婉曲表現だ。正直に言えば薄くなった)。頬がたるんだ。目の下にクマがある。ほうれい線が深い。体重は20代より10キロ増えた。

20歳の自分と45歳の自分。同一人物なのに、別人に見える。25年の歳月が、顔を、体を、目の輝きを変えた。変えたものの中で、最も大きいのは「目の輝き」かもしれない。20歳の目には何かがあった。希望か、好奇心か、エネルギーか。45歳の目には、それがない。ないわけではないが、20歳の頃と比べると確実に薄い。

アルバムを閉じた。静かに。そして、押入れに戻した。

鏡を見る頻度が減った

若い頃は、鏡をよく見ていた。朝、顔を洗って鏡を見る。髪を整えて鏡を見る。出かける前に全身を鏡で確認する。鏡の中の自分に、特に不満はなかった。「まあ、こんなもんか」くらいの感想で、鏡の前を離れた。

40代になって、鏡を見る頻度が明らかに減った。朝の洗顔で鏡を見るのは見るが、すぐに目をそらす。じっくり見ない。じっくり見ると、加齢の証拠が一つまた一つと目に入ってくるからだ。新しいシワ。増えた白髪。広がった毛穴。「こんなに老けたか」という感想が浮かび、朝から気分が沈む。気分が沈むくらいなら、見ないほうがいい。

鏡を避けるようになったのは、「現在の自分」と「自己イメージの中の自分」にズレがあるからだ。

自己イメージの中の自分は、なぜか30代前半くらいの姿をしている。まだ白髪が少なく、体重もそこまで増えておらず、顔のたるみも目立たない。この「脳内の自分」と、鏡に映る「現実の自分」が一致しない。一致しないことが、不快。不快だから、鏡を見ない。見なければ、脳内の自分を維持できる。維持できれば、自己肯定感が保たれる。

だがこの回避は一時的な対処にすぎない。写真に撮られたとき、免許証の更新で撮影されたとき、スマートフォンのインカメラに映ったとき。不意に「現実の自分」と向き合わされる瞬間は避けられない。そのたびに、脳内の自分と現実の自分のギャップに衝撃を受ける。

外見の変化を受け入れる過程

外見の変化を受け入れるのは、簡単ではなかった。段階的に進んだ。

第1段階は「否認」。35歳くらい。白髪が数本見つかった。「ストレスのせいだろう。抜けば目立たない」。体重が増え始めた。「食べすぎだ。運動すれば戻る」。変化を一時的なものとして処理した。

第2段階は「抵抗」。40歳くらい。白髪が増えて抜ききれなくなった。「染めるか」と考えたが、美容院で白髪染めをする費用(3000〜5000円/回、月1回で年間36000〜60000円)を考えて断念。市販の白髪染めを買おうとしたが、「面倒くさい」「肌が荒れそう」で二の足を踏んだ。体重は10キロ増のまま戻らない。「運動すれば」と言い続けて、運動しないまま2年経った。

第3段階は「交渉」。43歳くらい。「白髪はあるが、清潔感は保てる」「体重は増えたが、健康に大きな問題はない」「顔のたるみは仕方ない、年相応だ」。変化を部分的に受け入れつつ、「まだ大丈夫」と自分を納得させた。

第4段階は「受容」。45歳。「これが今の自分だ」と認めた。白髪も、体重も、たるみも、すべて含めて自分だ。20歳の自分には戻れない。戻れないことを、事実として受け入れた。受け入れたら、少しだけ楽になった。

受容に至るまでに10年かかった。10年は長い。だが老いは急に来るのではなく、じわじわと来る。じわじわ来るからこそ、受容にも時間がかかる。

「清潔感」のコスト

外見の変化を受け入れたとして、「清潔感」は維持しなければならない。社会生活を送るうえで、清潔感は最低限のマナーだ。だが清潔感を維持するには、コストがかかる。

白髪染め。自分で染めるなら、市販の染毛剤が1回800〜1500円。月1回で年間10000〜18000円。美容院なら年間36000〜60000円。どちらも節約生活では痛い出費だ。結局、白髪は染めずにそのままにしている。「白髪=不潔」ではないが、「白髪=老けて見える」は事実。面接や人と会う場面では不利になる可能性がある。

散髪。1000円カットに2ヶ月に1回通っている。年間6000円。これは必要最低限の出費として受け入れている。2ヶ月以上放置すると、明らかにだらしなく見える。だらしなく見えると、職場での評価に影響する。1000円×6回=6000円。これは「清潔感保険」だ。

衣服。年間の衣服代は1万円以内。ユニクロ、しまむら、リサイクルショップ。ブランド品は一切ない。だが「清潔感のある服装」は、安い服でも維持できる。洗濯をこまめにする。シミや汚れがあれば処分する。サイズが合った服を選ぶ。安い服でも、これらを意識すれば清潔感は出せる。

スキンケア。男性のスキンケアは省略されがちだが、40代以降は最低限の保湿が必要だ。肌が乾燥すると、シワが深くなり、肌荒れする。ドラッグストアの安い化粧水(500円程度)でいいから、洗顔後に塗る習慣をつけた。年間の費用は2000円程度。この2000円で、顔の乾燥と荒れが防げるなら安い。

合計すると、清潔感の維持コストは年間約2万円。月に換算すると約1700円。この金額を「安い」と見るか「高い」と見るかは、人による。手取り16万円の人間にとっては、1700円でも考えて使う金額だ。だが清潔感は、社会生活の「入場料」だ。入場料を払わないと、社会に参加しにくくなる。

「見た目」と「中身」のバランス

20歳の写真の自分は、見た目は良かった。若いから当たり前だ。だが中身はどうだったか。就職の知識もなく、お金の知識もなく、社会の仕組みも知らず、「なんとかなる」と楽観していた。見た目は良かったが、中身は空っぽに近かった。

45歳の自分は、見た目は衰えた。だが中身はどうか。20年以上の社会経験。もやし料理23種類のスキル。節約の知恵。制度の知識。人間関係の苦い経験。これらの「中身」は、20歳の自分にはなかったものだ。

見た目は衰えたが、中身は増えた。トレードオフだ。見た目と中身の総合スコアで見れば、45歳の自分は20歳の自分に負けていないかもしれない。負けているのは見た目だけだ。見た目だけで負けを認めるのは、自分を過小評価しすぎだ。

こう考えると少し楽になる。鏡の前に立って、白髪とシワを見ても、「これが中身の代償だ」と思える。代償を払って得たものがある。得たものを大切にする。大切にすることが、外見の変化を受け入れるもう一つの方法だ。

若い頃の写真との正しい付き合い方

若い頃の写真を見ると辛くなる。辛くなるから見ない、という選択もある。だが見ないことで、過去の自分を「なかったこと」にするのも違う気がする。

若い頃の写真は、「あの頃の自分も自分だった」ことの証拠だ。あの目の輝き、あの笑顔、あのエネルギー。確かにあった。あったことを、否定する必要はない。ただ、「あの頃に戻りたい」と思うのは、生産的ではない。戻れないものに執着しても、現在の自分は良くならない。

写真を見て「あの頃は良かった」と思うのではなく、「あの頃から今の自分まで、ずいぶん歩いてきたな」と思う。歩いてきた距離を、肯定的に捉える。歩いてきたことに、価値がある。歩く過程で得たもの——経験、知恵、忍耐力——を、誇りに思う。

アルバムを閉じたあの日。閉じたことは正しかった。だが閉じる前に見たことも正しかった。見て、感情が動いて、閉じた。この一連の動作が、「過去の自分と今の自分を接続する」作業だった。接続することで、今の自分が「過去の自分の延長線上にいる」ことを確認できた。延長線上にいるなら、今の自分にも意味がある。

写真の中の20歳の自分に言いたい。「お前はこの先、いろいろ大変なことがある。だが25年後のお前は、まだ生きている。生きていることが、一番大事なことだ」。20歳の自分は笑うだろうか。笑わないだろうか。笑っても笑わなくても、事実は変わらない。45歳の自分は、ここにいる。ここにいることが、すべてだ。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。若い頃の写真を見て複雑な気持ちになった人は、きっと少なくないはずです。

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