100均で生活を成り立たせるプロの技と、その虚しさ
100均は我が家のデパート
100円ショップ。略して100均。ダイソー、セリア、キャンドゥ。これらの店舗は、私にとってデパートのような存在だ。
デパートに行ったことはほとんどない。デパートの商品は、私の予算を超えている。100均は、私の予算内で「何でも揃う」場所だ。日用品、食器、文房具、掃除用品、キッチン用品、収納グッズ、衛生用品。生活に必要なものの大半が、110円で手に入る。
20年以上、100均に通い続けてきた。通い続けた結果、100均での買い物は「技」と呼べるレベルに達している。何を買うべきか、何を買うべきでないか。100均で買って正解のものと、100均では買うべきでないものの判別ができるようになった。
この技を誇るべきか。誇るべきではない。なぜなら、この技が必要な状況自体が、本来あるべきではないからだ。100均でしか買い物ができない生活は、スキルの証明ではなく、経済的困窮の証明だ。
100均で買って正解のもの
20年の経験から、100均で買って正解だったものを挙げる。
掃除用品。スポンジ、メラミンスポンジ、トイレブラシ、使い捨てクリーナー。これらは消耗品であり、高いものを買う必要がない。100均の品質で十分。むしろ100均のメラミンスポンジは、ホームセンターの商品と遜色ない。
文房具。ボールペン、ノート、クリアファイル、付箋。日常使いの文房具は100均で問題ない。書き味にこだわらなければ、ボールペンは100均で十分だ。
収納グッズ。プラスチックのカゴ、仕切り板、S字フック。6畳一間の限られたスペースを有効活用するために、100均の収納グッズは欠かせない。見た目はチープだが、機能的には問題ない。
キッチン用品。ピーラー、菜箸、計量カップ、ラップ、アルミホイル。消耗品系のキッチン用品は100均で十分。ただし包丁と鍋は100均では買わないほうがいい。切れ味と耐久性が圧倒的に劣る。
衛生用品。歯ブラシ、綿棒、ウェットティッシュ。ドラッグストアより安いケースもある。歯ブラシは消耗品なので、100均で月に1回交換するのが合理的だ。
100均で買うべきでないもの
一方、100均で買って失敗したものもある。
電池。100均の電池は持ちが悪い。すぐに切れる。結果的に交換頻度が上がり、トータルのコストはメーカー品と変わらないか、むしろ高くつく。安物買いの銭失いの典型例。
イヤホン。音質が悪い。断線しやすい。1ヶ月で壊れた。1000円のイヤホンなら半年持つ。100円×6個=600円 vs 1000円×1個。金額的にも100均のほうが安いが、毎月買い替える手間がストレスだ。
靴下。生地が薄い。すぐに穴が開く。3回洗濯したら毛玉だらけ。300円の靴下のほうが、はるかに長持ちする。
調味料。100均にも醤油や塩はあるが、量が少なく割高なケースがある。スーパーのPB商品のほうが安いことが多い。100均=最安、とは限らない。
工具。ドライバー、ペンチ。100均の工具は精度が低い。ネジ山を潰したことがある。ホームセンターで300円の工具を買ったほうが、結果的に安全で効率的だ。
これらの「失敗」を経て、「100均で買うもの」と「100均では買わないもの」の判別ができるようになった。この判別は、20年かけて培った経験知だ。
100均で暮らすということ
私の部屋を見回すと、100均の商品だらけだ。
食器は100均。マグカップ、茶碗、皿、コップ。全部110円。客が来ることはないので、見栄えを気にする必要がない。割れても110円で買い替えられる。気楽だ。
タオルは100均。薄いが、拭ける。高級タオルのふわふわ感はないが、水分を吸う機能は果たしている。
時計は100均。壁掛け時計。デザインは無骨だが、時間は正確だ。時計に求める機能は「正確な時間を示す」ことだけ。110円で十分だ。
スリッパは100均。半年で擦り切れる。擦り切れたら110円で買い替える。
この「110円の生活」を、外部の人間が見たらどう思うだろう。「質素」と思うか。「貧しい」と思うか。「ミニマリスト」と思ってくれたら嬉しいが、実態は「金がないからこうなっている」だけだ。
ミニマリストは「持たないことを選んでいる」。私は「持てないからこうなっている」。同じ「少ない持ち物」でも、意味がまったく違う。選択と制約の違い。この差は、部屋の中を見ただけではわからない。
虚しさの正体
100均で生活が成り立っていることに対して、誇りを感じる部分と、虚しさを感じる部分がある。
誇りの部分は前述した。限られた予算で生活を回すスキル。何を買うべきか、何を買わないべきかの判別力。これらは実用的な知恵であり、評価されていい。
虚しさの部分。それは「100均で十分だ」と自分に言い聞かせるたびに、「100均以上のものを諦めている」ことを確認しているからだ。
100均のマグカップで十分だ。だが本当は、少し重みのある、手に馴染む陶器のマグカップが欲しい。3000円くらいの。毎朝のコーヒーを、そのマグカップで飲みたい。そういう小さな贅沢を、100均の110円で代替している。代替するたびに、本物への渇望が微かに湧き、すぐに消える。消すのは上手になった。20年も練習すれば、渇望を消すスキルは上達する。
100均の商品に囲まれた部屋は、機能的だ。生きていくのに必要な機能は、すべて揃っている。だが「機能」以上のもの——美しさ、手触り、愛着——は、ほとんどない。100均の商品は、機能を果たしたら交換される。壊れたら捨てて、また110円で買う。愛着が生まれる前に、寿命が来る。
物に愛着を持つ余裕が、この生活にはない。物は消耗品であり、道具であり、110円のパーツだ。パーツは交換可能。交換可能なものに愛着は持てない。愛着を持たない生活は、効率的だが、少しだけ空虚だ。
いつか100均から卒業できるか
いつか、100均ではなく、もう少し良いものを買える日が来るだろうか。
マグカップを3000円で買う。タオルを1000円で買う。食器を500円で買う。100均から、ワンランク上の買い物に移行する。その日は来るのか。
わからない。来ないかもしれない。来なくても、100均は私を見捨てない。110円で、必要なものを提供し続けてくれる。100均は、私にとっての最後の砦だ。砦が存在する限り、生活は成り立つ。
感謝している。100均に。本気で感謝している。100均がなければ、生活の立ち上げコストは何倍にもなっていただろう。引っ越しのたびに、食器から収納から全部揃える。100均がなければ、数万円かかる。100均のおかげで、数千円で済む。
感謝しつつ、虚しさも感じる。この二つの感情は矛盾しない。感謝と虚しさが共存している。共存したまま、明日も100均に行くだろう。スポンジが切れたから。110円のスポンジを買いに。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。100均に助けられてきた人は、きっと少なくないはずです。

